「『早田光一郎氏に初めてクラシックを獲らせた』という形容詞で語られる、ただ1頭の馬なのだから…」

獅子の魂、運命に抗するレオダーバン列伝
 1988年4月25日生。牡。鹿毛。早田牧場新冠支場(新冠)産。
 父マルゼンスキー、母シルティーク(母父ダンサーズイメージ)。奥平真治厩舎(美浦)。
 通算成績:9戦4勝(旧3-6歳時)。 主な勝ち鞍:菊花賞(Gl)、青葉賞(OP)。
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レオダーバン列伝
         

『早田牧場新冠支場』

 近年「社台グループによる寡占」がいわれるようになって久しい。故・吉田善哉氏がほぼ一代で築き上げた一大帝国・社台ファームを母体とし、善哉氏の死後3人の息子たちによって分割継承された「社台グループ」は、その規模はもちろんのこと、生産馬の質においても圧倒的な優勢を誇っている。グループの中核となる社台スタリオンステーションに大種牡馬サンデーサイレンスを擁し、多数のGl馬とさらに多数の重賞馬を量産し続ける社台グループの威光は日本の競馬界を席巻し、いまや「社台ファームなしの日本競馬」は創造することさえできない状況である。

 しかし、トップの勢力が大きくなればなるほど、それに対する対抗勢力の登場が待望されるのもまた世の習いである。現在のところ、社台グループに対する明確な対抗馬たりうる生産牧場はどこなのかはっきりしていないが、そうした存在が現れてこそ馬産地の競走はより激しくなり、日本の競馬のドラマもより味わい深いものとなるだろう。

 そう広くはない日本の馬産地で、社台グループの対抗勢力となりうる生産牧場の候補はそう多くはない。その候補のひとつとなりうるのが、レオダーバンの故郷である早田牧場新冠支場だろう。早田牧場新冠支場は、1978年開業と歴史は社台ファームよりもさらに新しい新興牧場だが、近年特に急成長を遂げており、社台ファームには及ばないにしても、近年多数のGl馬を送り出している。

 この牧場の社台グループに対抗しうる強みとしては、なんといっても社台グループを超える「超大物」を出していることだろう。社台グループは、社台ファーム時代から、その圧倒的なシェアとは裏腹に、Glを3つ以上勝つような「超大物」は輩出していない。その点早田牧場新冠支場は、わずか20余年の歴史の中で、ビワハヤヒデ、ナリタブライアンという2頭の「超大物」と呼ぶに足りる名馬を輩出している。種牡馬としては、平均点こそサンデーサイレンスに及ばないものの、サンデーサイレンス以上に大物を輩出しているブライアンズタイムを擁し、先に挙げた2頭のほかにもマーベラスサンデー、シルクジャスティス、シルクプリマドンナなど多くのGl馬を送り出してきたこの牧場は、今後目を離すことができない牧場のひとつである。

 だが、早田牧場新冠支場が初めから順風満帆で名馬を送り出していたわけではない。この牧場の歴史は、その総帥である早田光一郎氏の苦闘と苦難の歴史でもあった。彼の長い苦労が実を結び始めるまでには長い時間を要したが、なかなか結果を出せなかった早田牧場新冠支場が一気に躍進するきっかけとなったのが、1991年のレオダーバンによる菊花賞制覇だった。この最初の勲章の後、早田牧場新冠支場の生産馬は面白いように走り始め、ついには現在につながるに至ったのである。

 そこで、今回は早田牧場新冠支場の躍進のきっかけともなった菊花賞馬レオダーバンについて、検証してみたい。



『内地から来た大ぼら吹き』

 早田牧場新冠支場の創始者である早田光一郎氏は、もともと北海道ではなく福島の牧場で生まれた。福島の早田牧場は、もともと大正6年に早田氏の祖父によって開かれたもので、地元ではかなり知られた名門牧場だった。もっとも、早田氏が生まれた前後の時期は、サラブレッド生産に本格的に取り組んでいたわけではなく、あくまでも副業的な位置づけだったという。そんな早田牧場がサラブレッド生産へと歩を進めていくことになったのは、なんといっても早田氏一代の決断によるものだった。

 早田氏は、早田牧場に70年ぶりに生まれた待望の男の子だったという。早田家は女系家族で、早田氏の父は婿養子だったのである。だが、早田氏が生まれたことで喜びに沸いていた早田家に突然謎の山伏が現れ、

「この子は出家する」
「この子の背後には馬頭観音がついている」

と予言したため、早田家は大騒ぎになった、とのことである。

 このように、生まれた時から「馬頭観音の御加護を受けていた」早田氏は、高校時代には乗馬に熱中し、馬とのかかわりを深めていくことになった。そして、その青春時代の中で将来馬産家となることを決意した早田氏は、大学を卒業した後、サラブレッド生産について学ぶためにカナダへ渡ったのである。

 カナダで馬産に関する多くの知識を身につけた早田氏は、帰国した後、サラブレッド生産に本格的に乗り出すために北海道の新冠に進出し、生産牧場を開業した。彼に牧場を開く資金を稼がせてくれた牝馬にちなんで「モミジファーム」と名づけられた牧場こそ、後の早田牧場新冠支場の前身である。結局のところ、早田家にしてみれば跡取り息子が福島を離れて北海道に牧場を開いてしまったのだから、「出家する」という予言はまったく的外れだったわけではない。

 そして、牧場を開いた早田氏は、自分自身を追い詰める意味もあって、出会った人々に

「10年以内にダービーを獲ります」

と宣言して回った。そのため、当時モミジファーム周辺の生産牧場から噂は広まり、ついには馬産地全体にこんな評判が流れるようになった。

「新冠に、今度内地から来た大ぼら吹きが牧場を開いたらしい」

 こうして早田氏は、たちまち馬産地の有名人となった。

 もっとも、早田氏にしてみれば、大ぼらのつもりでそんな大胆な発言をしたわけではなかった。当時の早田氏は自分の馬産の行方についてかなり自信を持っていたし、また、彼なりにその自信の裏づけも持っていた。彼がカナダから連れて帰った馬たちは、いずれもよりぬきの馬たちばかりであり、中でも牧場の名前にもなったモミジは、カナダで3年続けて牝馬チャンピオンに輝いた名牝の中の名牝だった。モミジがあまりにも強かったため、早田氏は現地の人々に

「わざわざ日本からやってきて賞金を持って行くことはないじゃないか」

と再三にわたって「抗議」されたとのことである。ちなみに、この「モミジ」という名前は、カナダ国旗のメープルリーフに因んで付けられたものである。早田氏が、メープルリーフとはモミジではなくカエデであるということを知ったのは、その後のことだった。

 モミジに代表される名馬たちを連れ帰り、さらには開業後間もなくカナダ年度代表馬ヴァイスリーガルを種牡馬として導入したりして、自信に満ちあふれていた若き日の早田氏は、自分の覚悟を示すために、家族に対しても

「ダービーを獲るまでは煙草をやめる」

と宣言した。もちろん早田氏には煙草を永久にやめる気はさらさらなく、近いうちにまた喫えるようになる、と思っていた。

 ところが、早田牧場新冠支場の成績は、思うようには上がらなかった。生産馬の重賞初制覇は牧場開設9年目のロイヤルシルキー(クイーンS)まで待つことになり、結局「ダービーを10年で獲る」という宣言を実現させるどころか、ダービーへ出走馬を送り込むことすらできなかった。

 不遜な宣言で名前を売った早田氏も、この時期名になると馬産の難しさを思い知らされ、頭を抱えてしまった。しかし、いまさら気づいても後の祭りである。後に残ったのは

「10年でダービーを獲るはずだった早田さん」

という哀れみにも似た「悪名」であり、さすがに

「恥ずかしくて表を歩けなかった」

という。レオダーバンが生まれたのは、早田牧場新冠支場の開業からちょうど10年が経過するころであり、早田氏の苦悩が最も深くなりつつある時期のことだった。



『小岩井系の末裔』

 レオダーバンは、伝説の名馬マルゼンスキーと、早田牧場新冠支場の繁殖牝馬シルティークとの間に生まれた。

 シルティークは1勝馬だが、早田牧場新冠支場の生産馬たちの血統図ではしばしば名前を見かける、牧場の基礎牝馬の1頭である。牝系を溯ると、古くはビューチフルドリーマーまでたどり着く、由緒正しき一族の出身ということになる。

 ビューチフルドリーマーは、戦前の馬産を下総御料牧場と二分した小岩井農場が明治40年に輸入した牝馬である。この馬の子孫たちには、その後ミハルオー、コダマといった小岩井農場出身の種牡馬が代々交配され、シルティークの母であるヤマトマサルの時点で「小岩井四大ファミリー」と呼ばれた血統のうち3本までが集約されていた。そのヤマトマサルに、早田氏が牧場開設2年目に導入したケンタッキーダービー1着入線(失格)のダンサーズイメージを交配して生まれたのがシルティークだった。彼女の一族には、オールカマーなど重賞を3つ勝ったハセシノブ、新潟記念を勝ったハセマサルなどがいる。



『偉大なる父』

 レオダーバンの父であるマルゼンスキーは、ある程度のファンになると説明を要しないほどの、名競走馬にして名種牡馬である。最後の英国三冠馬ニジンスキー産駒の持込馬として走った現役時代は、通算成績8戦8勝の戦績を残した。朝日杯3歳Sで大差勝ちしたのを始め、8戦で2着馬につけた着差を合計すると、実に61馬身になるというから、なんとも凄まじい。持ち込み馬も外国産馬と同様に扱う当時の規定ゆえにクラシックへの出走は許されなかったものの、後の菊花賞馬プレストウコウを子供扱いにしたその走りはまさに伝説であり、疑いの余地なく競馬後進国だった日本に、本当の世界のレベルを感じさせてくれた馬だった。それゆえに、この馬はクラシックには一度も出走していないにもかかわらず、「幻の三冠馬」と呼ぶ人も少なくない。

 また、マルゼンスキーは競走馬としてだけでなく種牡馬としても一流の成績を残し、このころは既に、菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンなどを輩出していた。レオダーバンが生まれた1ヶ月後のダービーでは、やはりマルゼンスキーの産駒であるサクラチヨノオーが優勝し、ついには「ダービー馬の父」の称号を手に入れるに至っている。競走馬として、種牡馬として日本競馬に大きな足跡を残したこの馬が顕彰馬にもなっているのは、むしろ当然のことであろう。

 レオダーバンは、このような血統背景のもとに生を享けた。日本古来の牝系と、日本競馬を震撼させた驚異の持ち込み馬の間に生まれた子。早田氏が牧場を開いて11年目、約束の10年を過ぎてもダービー出走すら果たせない失意の時期の誕生だった。




『ガラスの脚』

 レオダーバンは、3歳になってから美浦の奥平貞治厩舎へと入厩し、厩舎の期待馬として調教を積まれた。生まれながら脚部不安を抱えていたこともあり、デビューは少し遅れて12月になったものの、いざ戦いの舞台に立てば、レオダーバンの能力は抜けていた。デビュー戦を逃げ切ったレオダーバンは、まずは期待に応えた。

 しかし、レオダーバンの脚は、芝のレースを使うと疲れがたまりやすかった。レオダーバンの次走が500万下のダート戦とされたのは、新馬戦で能力の高さが実証されたことから、後は少しでも脚部にかかる不安を軽くしていこうという考えがあってのことだった。

 こうしてダート戦に出走したレオダーバンだったが、能力的には負けるはずがなかった条件戦なのに、4着に破れてしまった。おそらくは、素軽いスピードが身上のこの馬にとって、ダートの馬場はあまり適性がなかったのだろう。奥平師は、この日のレースからダートには見切りをつけざるを得なくなり、レオダーバンがダートのレースを走ったのは、これが最初で最後となった。

 レオダーバンはマルゼンスキー産駒ではあったが、無尽蔵のスタミナ、そしてパワーで鳴らしたホリスキーとは、まったくタイプが異なっていた。切れ味あるスピードを最大の武器とするレオダーバンにとって、芝コースこそが最も力を発揮できる環境だった。

 レオダーバンはこの後ソエを発症し、放牧に出されることになった。この時期に放牧を余儀なくされたことによって、陣営のクラシックへの思惑は大きな修正を強いられた。放牧から戻ってきたレオダーバンが2勝目をあげたのは、皐月賞(Gl)2週間前の500万下特別・山桜賞でのことだった。慢性的な脚部不安を抱えるレオダーバンに中1週の無理はさせられず、皐月賞は泣く泣く断念することになった。

 皐月賞のゲートにすらたどり着くことができず、泣きの涙に袖を濡らしたレオダーバン関係者の無念をよそに、レオダーバンが出られなかった皐月賞では、1頭のスターホースが誕生した。皇帝の子・トウカイテイオーの戴冠である。



『帝王』

 トウカイテイオーは、日本競馬史上唯一不敗で三冠を達成したシンボリルドルフの初年度産駒だった。シンボリルドルフは通算16戦13勝2着1回3着1回と、レース中の故障に泣いた海外での1戦を除くとほぼ完璧な成績を残したばかりでなく、クラシック三冠をはじめ国内の主要レースをほぼ総なめにして「絶対皇帝」とまで謳われたこの馬は、まさに日本競馬が誇る名馬の中の名馬である。

 名馬という意味ではレオダーバンの父マルゼンスキーも引けを取らない。しかし、マルゼンスキーの場合、規則によってとはいえ、クラシック三冠という、多くの最強馬たちを生み出した物語から閉め出されてしまった弱みがあった。そのため、彼は朝日杯3歳S以外では本当の意味での一線級との戦いを経験することができず、彼の強さを語るためには多くの想像をまじえなければならない。その点シンボリルドルフは、現実に三冠を勝ったばかりでなく、上の世代も下の世代も完膚なきまでに叩き潰したうえで日本競馬に君臨した現実の最強馬だった。

 また、トウカイテイオーは牝系についてもドラマがあった。トウカイテイオーの牝系を溯ると、下総御料牧場が1931年に輸入した星友にいきつく。下総御料牧場といえば、レオダーバンの牝系の出自たる小岩井農場と戦前に覇を競った馬産界の両巨頭の一角である。星友から始まった一族は、牝馬ながらにダービーを制しながら、最後は競馬場の片隅で斃死したとされる悲運の名牝ヒサトモの物語などを経て、いったんは滅亡の危機に瀕しながら、ついにはそれを乗り越えて現代に蘇った。それがトウカイテイオーだった。

 血統的にも、レオダーバンとトウカイテイオーは、父母両面から対照的な存在だった。トウカイテイオーの父シンボリルドルフが三冠レースからのし上がった、王道を行く最強馬なら、レオダーバンの父マルゼンスキーは、その三冠レースに出走すら許されなかった悲運の最強馬だった。逆に牝系は、レオダーバンの牝系が小岩井農場、そして早田牧場へと渡り歩きながらも時代の種牡馬たちと交配されて順調に発展してきた牝系なら、トウカイテイオーの牝系は下総御料牧場に始まり、いくつもの動乱と悲運の中で何度も滅びかけながらも何とか細々と続き、それがようやく現代に大きく花開いた波瀾万丈の牝系だった。

 レオダーバンが出走することすらできなかった皐月賞は、「トウカイテイオーのためのレース」となった。父と同じ道を歩むトウカイテイオーは、かつて父に完膚なきまでに叩き潰された三冠馬ミスターシービーの子であるシャコーグレイドの必死の追撃をものともせず、5連勝で一冠を奪取したのである。ミスターシービーを熱愛したオールドファンの想いも一緒に叩き潰したこの時の1馬身差は、着差以上の完勝だった。危なげのないその勝ち方は、まるで皇帝を超える馬は皇帝の子でしかないといわんばかりだった。

 華やかな舞台で父に続いて帝位に戴冠したトウカイテイオーと異なり、単なる2勝馬に過ぎないレオダーバンは、帝王の道を阻むことはおろか、同じ舞台に立つことすらできなかった。彼にできることといえば、ただ指をくわえて見ていることだけだった。




『初めてのダービー』

 皐月賞では悔しい思いをしたレオダーバンだったが、そんな思いは一度で充分だった。既に2勝馬であるレオダーバンの次走は、当然ダービーへのステップレースだった。奥平師が次走に選んだのは、当時はまだ重賞ではなくダービー指定オープンとして行われていた青葉賞だった。それまで中山でしか走ったことのなかったレオダーバンにとって、ダービーと同じ東京2400mのコースで行われる青葉賞は、本番へ向けての予行演習として極めて重要な意味を持っていた。

 ここでレオダーバンは、皐月賞に間に合わなかった無念を晴らすかのように、豪快な差し切り勝ちを演じた。第4コーナーでは最後方にいたレオダーバンだったが、直線で10頭以上をごぼう抜きにし、最後には2着に1馬身4分の3の差をつけ、圧勝したのである。

 2着に入ればダービーへの優先出走権が与えられる青葉賞を勝ったことにより、レオダーバンは堂々とダービーへの切符を手に入れた。もっとも、せっかく優先出走権を得ても、その後故障や調整ミスで出走できなって無駄にしてしまっては、せっかくの苦労が水の泡である。しかし、レオダーバンは心配された脚部不安もなく、無事ダービーのゲートへと駒を進めた。

 レオダーバンのダービー出走は、故郷である早田牧場新冠支場にとって、開業14年目での初めての生産馬のダービー出走だった。「10年でダービーを獲る」から始まった牧場の、「14年目でダービーに出る」までの長い道のり。約束の10年が過ぎてもダービーを獲るどころか出走馬すら送り込めなかった早田氏は、「恥ずかしくて表を歩けなかった」こともあったが、そんな彼にとってこのダービーは、待ちに待ったレースだった・・・。




『宿命の対決』

 第58回東京優駿(Gl)の1番人気は、当然のように不敗のまま皐月賞を制したトウカイテイオーだった。もともとダービーで上位に来るのは皐月賞上位馬であることが多いが、この年の場合、皐月賞でもはやトウカイテイオーとその他の皐月賞組との勝負づけは終わった、というのが大方の見方だった。さらに、皐月賞では4着に敗れたものの、それは大きな不利があったためであり、トライアルのNHK杯(Gll)では豪快な末脚で優勝し、トウカイテイオーを逆転可能な少数の候補と見られていたイブキマイカグラもレースを直前にして骨折し、戦線を離脱してしまった。これで、トウカイテイオーの優位はますます揺るぎないものとなった。

 そんな中で、ファンが打倒トウカイテイオーの一番手に推したのは、皐月賞2着のシャコーグレイドをはじめとする皐月賞組ではなく、未対決の上がり馬レオダーバンだった。レオダーバンが青葉賞で見せた鮮烈な差し切り勝ちは、アンチ本命党たちの心をがっしりとつかんでいたのである。レオダーバンにとって、この戦いは史上最強馬の地位を賭けた父の思い、下総系とライバルになる小岩井系の牝系の誇り、そして早田牧場新冠支場のダービーへの夢を背負ったものだった。

 レオダーバンの鞍上には、皮肉なことに、かつてシンボリルドルフのパートナーとして知られた岡部幸雄騎手が迎えられていた。岡部騎手といえば、押しも押されぬ騎手の第一人者であり、その卓越した手腕は、レオダーバンにとってこの上なく頼もしいものだった。



『敗北』

 だが、その戦いの決着は、思いがけないほどにあっけないものだった。トウカイテイオーが自分の勝ちパターンである好位につけて、直線での抜け出しを図ったのに対し、レオダーバンは中団よりやや前でレースを進めた。ダービーでは通称「ダービーポジション」と呼ばれる場所がある、というのが長い間の定説であり、ダービーを勝つには第1コーナーで10番手以内にいないと直線で追い込んでも届かない、とされていた。それを意識してのことだろうか、それまで逃げ切りか直線一気のレースしかしたことのないレオダーバンにとって、ダービーは実質初めて馬群の中でのレースとなった。

 そして、レオダーバンの末脚は最後の直線で爆発する・・・はずだった。しかし、その破壊力は、期待したほどではなかった。レオダーバンも、いちおう脚を伸ばしてはいた。しかし、前を行くトウカイテイオーとの差は、思うとおりに縮まってこない。いや、むしろ広がっていく

トウカイテイオーは、レオダーバンを引き離し、そのままゴール板へとなだれ込んでいった。父に次ぐ、親子二代の不敗の二冠馬が誕生した瞬間だった。

 レオダーバンは、トウカイテイオーから3馬身離されての2着に敗れた。父、母、そして生産牧場の夢を背負った代理戦争は、トウカイテイオーに凱歌が上がったのである。



『長い禁煙の終わり』

  こうしてレオダーバンは、一生に一度のダービーで敗れ去った。一般の前評判こそはトウカイテイオー絶対有利だったが、レオダーバン陣営では勝利に向けたひそかな、しかし絶対の自信を持っていた。この日早田氏は、奥平師から7、8割は勝てる、といわれていたという。

 レオダーバンは負けたとはいえ、全力を出し切っての敗北だったから、悔いはなかった。しかし、悔いはなくとも悔しさはある。早田氏は、現実の敗北の前に、ダービーを獲るということがどれほど困難か思い知らされた。

 さて、レオダーバンで2着だったダービーの後、早田氏は奥さんの許しを得て禁煙を解いてもらった。初めてダービーへ出走させた馬が2着ならばたいしたものだ、と思ったからか、それとも「当分ダービーは獲れない」と思ったからなのか。二説があるが、真相は本人たちのみの知るところである。ただ、レオダーバンは、早田氏の長い長い禁煙生活を終わらせた馬だということは間違いない。



『混迷菊戦線』

 さて、ダービーが終わったことで、競馬界の関心は秋の菊戦線へと移っていった。だが、トウカイテイオーがダービーで見せた強さは、あまりに圧倒的だった。皐月賞よりもダービーでより強い競馬を見せたトウカイテイオーが、菊花賞で敗北する姿を想像するのは困難であり、ダービーを見たファンの大多数は

「秋には不敗の三冠馬が誕生することは確実だろう・・・」

という感慨を持った。そんな予測が、秋を待たずして外れることになるとは、誰も思いもしていなかった。

 レース後しばらくして、競馬界には衝撃的なニュースが伝わった。トウカイテイオー、レース中の骨折が判明・・・。その程度も軽くなく、菊花賞までの復帰は絶望だという。父に次ぐ不敗の三冠の夢は絶たれ、この年の菊戦線は、無風から一転して本命不在の戦国絵巻へと様変わりした。

 トウカイテイオーがいなくなってみると、ダービーで2着に入ったレオダーバンは、当然菊花賞の有力候補の1頭だった。この時点で5戦3勝2着1回という戦績は誇れるものであり、さらにダービーでは、トウカイテイオーの次にゴールしたのはレオダーバン以外の何者でもない。そうなると、ダービー馬がいない菊花賞では、真っ先にゴール板を駆け抜けるのはレオダーバンである、というのも極めて自然な発想である。

 しかし、その反面でレオダーバンには、そんな素直な発想をそのまま受け入れさせてはくれないいくつかの不安材料があった。まず、行きたがる気性が長距離でのスタミナ比べでは、致命傷となるのではないか。極限のスタミナを要求される菊の過酷な舞台では、折り合いを欠くということは、それだけで勝負にならなくなってしまうおそれがあった。また、レオダーバンのキャリアの少なさは、未知の魅力とは裏腹の脆さにつながる可能性もある。ダービーが重賞初挑戦という経験の浅さは、三冠レースでも「強い馬が勝つ」といわれる菊の激しい流れの中で、果たして吉と出るのか凶と出るのか。

 そんな不安は、レオダーバンが秋の緒戦となったセントライト記念(Gll)で3着に敗れたことにより、余計に強まることになった。このレースの出走馬は決して高いレベルとは言いがたく、勝ったストロングカイザーは、クラシック登録がなかったため、菊花賞へは出られなかった。もちろんオグリキャップの例もあるように、クラシック登録がないから弱いというわけではないが、ある程度の期待が持たれていた馬はほとんどクラシック登録をするのが本筋であることからすれば、こうした馬にあっさりと敗れるというのは、不安な船出だった。

 もっとも、レースに騎乗した岡部騎手だけは、レースの後も強気を崩さなかった。彼のいうところによれば、セントライト記念は内容的には悲観すべきものではなかったという。彼は、このレースの中から果たして何をつかんだのだろうか。

 トウカイテイオーが不在の菊花賞(Gl)で1番人気となったのは、春も期待馬とされていながら皐月賞では大きな不利を受けて敗れ、ダービーは骨折で出走すらかなわなかったイブキマイカグラだった。直線一気の脚質ゆえに、レースの安定感はあまりなかったものの、その実力は誰しも認めるところであった。また、父リアルシャダイ、伯父アンバーシャダイという血統も長距離向きと思われた。それに続いたのは、後に有馬記念(Gl)3年連続3着となり、稀代の人気馬となったナイスネイチャだった。もっとも、この馬も当時はまだ世紀の三枚目の面影はなく、小倉記念(Glll)、京都新聞杯(Gll)を含む4連勝で菊花賞に名乗りを挙げた、堂々の夏の上がり馬だった。レオダーバンは彼らに次ぐ3番人気に支持された。これに続くのが三冠馬ミスターシービーの代表産駒シャコーグレイド、後の国際Gll馬フジヤマケンザンなどといった面々だった。

 やがて、天高く馬肥ゆる秋の青空の下、「最も強い馬」が勝つ菊花賞(Gl)が始まった。―最も速く、もっとも運のある馬不在の中で。



『名手の魔術』

 この日のレースは、フジアンバーワンが引っ張るゆったりとした展開になった。1200m通過時点で1分15秒2というラップは、前年メジロマックイーンが制したときにくらべて2秒6も遅い超スローペースだった。行きたがる気性のレオダーバンにとっては非常に難しい展開となったが、岡部騎手は中団でかかりかけるレオダーバンをなだめることに専念しながらレースを進めた。

 岡部騎手も世間の評価と同様、レオダーバンの本質は中距離馬であるとみていた。普通に乗ったのでは、後半スタミナを無くして勝つことはできないだろう。そこで岡部騎手は、前半はなるべく馬に競馬をさせず、ただ楽に走らせることでスタミナを温存し、後半だけで勝負をしようと考えていた。

 実は、岡部騎手がこのような作戦をとるのは、初めてのことではなかった。有名なところでは、クシロキングで勝った1986年の天皇賞・春(Gl)がある。それまで2000mまでしか走ったことのなかったクシロキングに騎乗した岡部騎手は、2マイルの長丁場を同じ作戦で実質1マイル戦に持ち込み、見事に盾の栄誉を勝ち取ったのである。もちろん今回のレースにもその作戦を応用する背景には、力のある逃げ馬が不在のため、スローに流れることへの読みがあった。馬の力、距離、展開、騎手。あらゆる要素を瞬時に判断した上で馬の力を出し切れる作戦を選び120%の成果を得ること。岡部騎手が昔、そして今も日本を代表する名手として称えられるゆえんである。



『若き獅子の咆哮』

 計算し尽くされた岡部騎手の騎乗は、やがて見事に当たった。超スローペースのまま馬群が団子状態となって第4コーナーまで押し寄せたこのレースは、完全な上がり勝負となったのである。瞬発力を武器とするレオダーバンにとって、これは望むところの展開だった。

 しかも、ライバルたちの多くは、予想を上回るスローペースに折り合いがつかず、持てる力の何割かを発揮できない状態となっていた。そんな中でレオダーバンは、道中岡部騎手が懸命に折り合いをつけた甲斐あって、しっかりとも前の瞬発力を発揮できる状態を保っていた。末脚を爆発させたレオダーバンは、馬群を抜け出して先頭を捕らえると、一気に加速をつけてゴールへとなだれ込んでいった。やはり大外から追い込んできたイブキマイカグラに1馬身半差を付けての完勝だった。

 この日レオダーバンが記録したキャリア7戦目での菊花賞制覇は、当時の最短記録だった。こうして若き獅子は、淀を舞台に勝利の雄叫びをあげたのである。



『悲運』

 菊花賞馬となったレオダーバンだったが、その実力への評価は、先輩菊花賞馬たちに比べるとお世辞にも高いとはいえなかった。時計が平凡だったこともあったが、何といっても二冠馬不在の中での勝利だったことが、その最大の理由であろう。

 しかし、トウカイテイオーは骨折休養中だったため、直接戦うというのは無理な相談だった。レオダーバンがトウカイテイオーを凌ぐ評価を得るためには、トウカイテイオーに先駆けて、上の世代の強豪たちを撃破するしかない。そして、レオダーバンの次走は有馬記念(Gl)と決まった。

 この年の有馬記念の大本命馬はメジロマックイーンとされており、前年の菊花賞(Gl)、この年の天皇賞・春(Gl)を制し、天皇賞・秋(Gl)でも後続に6馬身差を付けて1着入線(降着)を果たしたこの馬ならば、相手にとって不足はなかった。そして、レオダーバンのパートナーであり、日本を代表する名騎手である岡部騎手も、

「中距離ならマックイーンとも好勝負できる」

とレオダーバンの実力に太鼓判を押した。メジロマックイーンに挑む有馬記念は、レオダーバンにとってトウカイテイオーの呪縛を離れ、絶好の腕試しとなるはずだった。

 しかし、そんなレオダーバンを悲運が襲った。有馬記念直前になって、レオダーバンは右前脚に屈腱炎を発症したのである。屈腱炎・・・脚がエビの腹のように腫れることからエビ腹ともよばれるこの症状は、競走馬にとって不治の病と呼ばれるほど治りにくく、そして競走能力も容赦なく奪っていく悪魔の病だった。

 もともとレオダーバンの父のマルゼンスキーも慢性的な脚部不安を抱えており、最後に引退したのは屈腱炎の悪化が理由だった。マルゼンスキーは種牡馬としてその高い能力を子孫に伝えたが、それと同時に脚部不安、そして屈腱炎についても同時に産駒に伝えてしまう傾向があった。すなわち、マルゼンスキーの子は、走る子ほど脚部が弱く、代表産駒であるホリスキーやサクラチヨノオーらも屈腱炎で競走生命を絶たれている。レオダーバンは、自らの血の宿命からは逃れられなかったのである。



『獅子にかつての光なく』

 それでもレオダーバンは、関係者の必死の努力によって、何とか実戦に復帰した。しかし、復帰後のレオダーバンは、もはやかつてのレオダーバンではなかった。

 レオダーバンの復帰戦は、故障前のレオダーバンが目標としていた有馬記念からちょうど1年後、1992年の有馬記念(Gl)だった。しかし、1年2ヶ月ぶりの実戦となったこのレースでのレオダーバンは、最後方のまま見せ場すら作ることができず、16頭だての13着に惨敗した。続くAJCC(Gll)でも、格下の相手の中で9頭立ての8着に終わった。やはり、悪魔の病はレオダーバンの脚を蝕み、その能力を奪い去っていた。菊花賞でファンを魅了した強いレオダーバンは、二度と甦ることはなかった。



『獅子の夢よふたたび』

 結局レオダーバンは、このAJCCを最後に現役を引退し、種牡馬となることが決まった。3度目の骨折を乗り越えたトウカイテイオーが奇跡の復活を遂げたこの年の有馬記念の頃、レオダーバンは既に、翌年の2度目の種付けシーズンの準備に入っていた。

 種牡馬入りしたレオダーバンは、当初はマルゼンスキーの後継種牡馬として、産地でもそこそこの人気を集めた。毎年交配する繁殖牝馬は50頭を越え、30頭台の産駒数を確保した。繁殖牝馬の質についても、生まれ故郷である早田牧場新冠支場が初めてのGl馬、そしてクラシックホースのためになかなかの牝馬を揃えただけでなく、他の牧場が連れてきた繁殖牝馬も、それなりのレベルを保っていた。

 そして、実際に産まれたレオダーバンの子供たちの評判は、悪いものではなかった。通常は種牡馬としての人気が落ち込むことが多い3年目、初年度産駒デビュー直前の種付けでも、レオダーバンは前年並みの人気を集めている。これは、それまでに生まれた産駒の質が合格点に達していたからこそのことである。

 しかし、実際に競馬場でデビューしてみると、レオダーバン産駒の走りは期待どおりのものではなかった。レオダーバンと同じ年に産駒をデビューさせた内国産種牡馬といえば、メジロライアンやダイタクヘリオスがいるが、初年度からメジロドーベル、メジロブライトといった大物を出したメジロライアンや、目立たぬながらも堅実に走る子を出し、さらには晩成の短距離王ダイタクヤマトも輩出するに至ったダイタクヘリオスに比べ、レオダーバンの産駒成績は寂しいものだった。

 産駒が走らなければ、種牡馬の人気は落ちるのが当然である。人気の低下は交配牝馬の数、質両面での低下につながり、それらはさらなる産駒成績の低下を招く。4世代目となる1997年生まれの産駒は一気に12頭まで落ち込み、その後もぱっとしないのは、厳しい種牡馬の生き残り競争の中での厳しい現実である。

 マルゼンスキーは種牡馬として大成功したが、その直系は、現在断絶の危機にある。マルゼンスキーの子供たちは、ホリスキーやスズカコバンを見ればわかるように、種牡馬としてそこそこの成績は残すものの、Gl級の後継馬を残すことができないまま高齢化しつつあるのである。サクラトウコウがネーハイシーザーを出しただけでは、マルゼンスキーの系統の実績としてはまだまだ物足りない。その意味で、若いレオダーバンには大きな期待がかけられていたのだが、今のところその期待は裏切られた形となっている。

 レオダーバンの産駒もずいぶんと少なくなってしまったが、その中からぜひ、父を超える大物が出現することを期待したいものである。本質は中距離馬といわれながらも菊を制した父の「獅子」の名に相応しい闘争心を受け継ぐ子が再びターフをわかせること、そしてマルゼンスキーの直系、ビューチフルドリーマーにつながる血を後世に残してくれることを、ファンは待望している。何といってもレオダーバンは、「早田牧場新冠支場が初めてダービーに送り込んだ」「早田光一郎氏に初めてクラシックを獲らせた」という形容詞で語られる、ただ1頭の馬なのだから。
   

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記:1998年9月28日 補:1999年2月10日 2訂:2000年6月22日
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