―そして、大観衆の驚愕の中、謎の鹿毛馬はゴールを突き抜けた

―世紀の一発屋 ダイユウサク列伝その3
 1985年6月12日生。牡。鹿毛。競優牧場(門別)産。
 父ノノアルコ、母クニノキヨコ(母父ダイコーター)。内藤繁春厩舎(栗東)。
 通算成績:38戦11勝(4-8歳時)。主な勝ち鞍:有馬記念(Gl)、京都金杯(Glll)、
 阪神競馬場新装記念(OP)。
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ダイユウサク列

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(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『輝ける日々』

 6歳になったダイユウサクは、いつの間にやらオープン、そして重賞戦線の常連になっていった。特に秋の戦績はめざましく、9月から12月までの間に5戦走った彼は、トパーズS(OP)等で3勝を挙げ、セントウルS(Glll)で3着に入っている。なんと天皇賞・秋(Gl)にも挑戦し、7着に敗れたとはいえ、騎乗した村本善之騎手からは

「ここまで頑張ってくれれば、言うことはありません」

と「お褒めの言葉」を頂いている。

 そんなダイユウサクの活躍は、7歳になっても終わることがなかった。年初めの京都金杯(Glll)ではトップハンデの1番人気に応え、ついに念願の重賞初制覇を果たした。ちなみに、この京都金杯では、第4コーナー手前で鞍上の内田浩一騎手を振り落としたカラ馬のメジロマーシャスと死闘を繰り広げ、熊沢重文騎手はレース後、

「カラ馬も抑えきったはずですよ」

と胸を張っている。

 その後、産経大阪杯(Gll)でもホワイトストーンの2着と頑張ったダイユウサクだったが、裂蹄を発症して半年の休養を余儀なくされると、復帰後は振るわない成績が続いた。秋に復帰したダイユウサクは、朝日CC(Glll)では16頭だての7着、京都大賞典(Gll)では7頭だての5着に沈んだ。それまで長い間頑張ってきたダイユウサクだが、さすがに衰えてしまったのか。内藤師をはじめとする関係者も、年齢が年齢だけに

「もう駄目か」

とがっかりしていた。




『挑戦者たち』

 しかし、引退させる前にいろいろな方法を試してみようということで、次走のスワンS(Gll)で思い切った後方待機策をとってみたところ、ダイユウサクは鋭い末脚を見せて4着に食い込んだ。そのため、内藤厩舎の人々はまた

「諦めるのは早い」

と思い直すようになった。これからのダイユウサクは、距離が短い方がいいのかもしれない。また、それまではどちらかというと好位か中団からの競馬が多かったダイユウサクだが、年齢が年齢だけに、一瞬の瞬発力に賭けた方がいいのではないか・・・。

 内藤師は、ダイユウサクをマイルCS(Gl)で使ってみることにした。前年の天皇賞・秋に続く生涯2度目のGl挑戦だったが、今度もダイユウサクは後方からよく追い込み、強力なメンバーの中で掲示板に載る5着に食い込んだ。これは、内藤師らにとっても予想外の活躍だった。

 ダイユウサクの担当厩務員である平田修氏と、主戦騎手の熊沢重文騎手は

「何とか短いところでGlを獲らせてやりたい」

と本気で考えるようになり、話し合いの上、内藤師にスプリンターズS(Gl)への出走を頼み込んだ。年齢的に、これはGlの最後のチャンスとなる可能性が高かった。

 だが、内藤師の判断は、彼らの願いとはまったく違ったものだった。ダイユウサクの次走はスプリンターズS(Gl)の前週に行われる芝1600mの阪神競馬場新装記念(OP)に決まったのである。まさか連闘でGlを使うわけにもいかず、ダイユウサクにGlを獲らせてやりたいという平田厩務員や熊沢騎手の野望は、事実上断たれるかに思われた。実はこの時、内藤師の眼はまったく別のところを向いていたが、そのことを若い2人は知る由もない。平田氏や熊沢騎手は、59kgのハンデを背負わされて阪神競馬場新装記念を勝ったダイユウサクが、中1週となる有馬記念(Gl)にも登録されているという事実の意味を測りかねていたのである。




『伝統を超えた幸運』

 この年の有馬記念(Gl)は、皐月賞、ダービーを無敗で制してクラシック戦線を主導したトウカイテイオーが骨折で出走できないため、古馬最強と謳われるメジロマックイーンの独壇場となるだろうというのがもっぱらの予想だった。この年はトウカイテイオーに限らず故障で有馬記念を回避する有力馬が相次いだため、出走馬の層が例年よりも薄かった。

 もっとも、いくら層が薄いとはいっても、有馬記念は有馬記念である。重賞勝ちが京都金杯だけのダイユウサクが、ファン投票で選ばれるはずはない。ダイユウサクが有馬記念に出走するためには、推薦委員会(当時)から推薦をもらう必要がある。

 登録されていたために審議の対象にはなったダイユウサクだったが、推薦委員会では、彼の出走の可否について激論がかわされたという。反対説の主たる論拠は、

「この程度の馬を出しては、伝統ある有馬記念の格が落ちるのではないか」

という一点に尽きていた。この年はもともと登録馬が少ないため、推薦委員会の動向次第ではフルゲートにならない可能性もあった。だが、反対派は、ヘンな馬を推薦で出走させるくらいなら、フルゲートにならなくても格式にふさわしい馬だけで力勝負をさせた方がいいというのである。

 それでもダイユウサクは、有馬記念に何とか推薦されることになった。中央競馬の1年を締めくくるグランプリがフルゲートにならないというのは、いくらなんでも情けない。それに、ダイユウサクが本当の駄馬ならともかく、この年の初頭には京都金杯を勝ち、さらに前走でもトップハンデのOP特別を勝っている。そのふたつの実績が、彼の推薦の大きな原動力となり、道は拓かれた。




『夢』

 こうして有馬記念のゲートになんとか滑り込んだダイユウサクだったが、グランプリを控えての彼の調整は、内藤師の予想すらはるかに超える素晴らしいものだった。もう一度同じ状態に仕上げろといわれてもできない、それほどの究極の仕上げが、この時のダイユウサクだった。

 内藤師は、有馬記念を数日後に控えたある夜、夢を見た。夢の中で5枠に入ったダイユウサクは、メジロマックイーン以下のライバルを斥けて、先頭でゴールを駆け抜けていったのであめ。

 内藤師は、調教師は買ってはいけないはずの5枠からの馬券を、大量に買っていた。そこで内藤師が換金に行ったところ

「現金にしますか、小切手にしますか」

と尋ねられたため、彼は、

「億という金はまだ見たことがないので、現金にして下さい」

と答え、ダイユウサクと一緒に札束を馬運車に積んで栗東に帰っていった・・・というのが、その夢の内容だった。

 この段階ではまだ笑い話半分で、知り合いに

「5枠に入ったらうちの馬の単勝を買ってみてくれ」

などと冗談まじりに笑っていた内藤師だったが、抽選でダイユウサクの枠順が本当に「5枠」の8番になると、すっかりその気になってしまった。内藤師のイレ込み具合がどのくらいのものだったかというと、有馬記念当日の乗り役として、思わず岡部幸雄騎手に声をかけるほどだった。


 [「その4」へ続く]

記:1998年8月11日 5訂:2006年02月27日
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