「疾走の馬、青嶺の魂となり」 そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、かれは今も眠っている
疾走の馬、青嶺の魂となりライスシャワー列伝その12
 1989年3月5日生。1995年6月4日死亡。牡。黒鹿毛。ユートピア牧場(登別)産。
 父リアルシャダイ、母ライラックポイント(母父マルゼンスキー)。飯塚好次厩舎(美浦)。
 通算成績は、25戦6勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)2回、菊花賞(Gl)、
日経賞(Gll)、芙蓉S(OP)。
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ライスシャワー列伝
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『残酷な時代の中で』

 こうして二度目の天皇賞・春(Gl)制覇を果たしてGl勝ちを三つとし、「功成り名遂げた」といってよい実績を残したライスシャワーだったが、種牡馬入りの話は不思議なほどに出てこなかった。
 
 もちろん、ライスシャワー陣営の人々が種牡馬入りを考えなかったわけではない。しかし、種牡馬入りの道を模索したライスシャワー陣営の人々に対し、馬産界の反応は冷たかった。ライスシャワーの種牡馬入りの話を持ち込んでも、断られ続けてしまったのである。
 
 ライスシャワーが5歳時に天皇賞・春(Gl)を勝った時には、高額のシンジケートを組んで種牡馬入りする話が馬産界の方から持ち込まれたこともあった。しかし、その話は5歳秋の惨敗続きで立ち消えになり、ライスシャワーの種牡馬としての可能性の評価は地に堕ちていた。
 
 それはある意味仕方のないことかもしれない。5歳春当時、ライスシャワーが現役最強馬となる可能性を秘めていた時に比べると、その後惨敗を繰り返したことで評価が落ちるのはむしろ当然のことである。しかし、ライスシャワーにとって悲劇だったのは、2年ぶりの復活勝利が彼自身の評価を上向かせる材料とは見てもらえなかったことだった。
 
「ライスシャワーは、天皇賞・春と菊花賞を絶対能力ではなくステイヤー適性で勝った」
 
というのが、ライスシャワーに対して下された馬産地の評価だった。
 
 ミホノブルボン、メジロマックイーンという最強級の名馬を破ったライスシャワーは、5歳時には、これらのレースを絶対能力で勝ったと思われていた。なればこそ、ミホノブルボンやメジロマックイーンを超える絶対能力を子に伝えることを期待されて、高額なシンジケートによって種牡馬入りする話も持ち上がっていたのである。しかし、その後情勢は大きく変わった。5歳秋から6歳にかけて長いスランプに陥り、7歳の天皇賞・春(Gl)にしてようやく復活を果たしたライスシャワーへの評価は「長距離向きのステイヤー」というものに過ぎなかった。
 
 この時既に、競馬界の流れはスピード化の一途をたどり、もはや誰にも押しとどめようがない時代のうねりとなっていた。レースの編成から長距離レースは減り、レースの展開は、ステイヤーの実力発揮を妨げるスローペース症候群が蔓延しつつあった。スピード豊かな種牡馬が歓迎され、アメリカからどんどんスピード競馬に対応できる種牡馬が流入する反面で、真性のステイヤー、それも内国産種牡馬であるライスシャワーのような馬への需要は、ほとんどなくなろうとしていたのである。

 
 
 

『風の分岐』

 ライスシャワー陣営の人々は、悲しかった。彼らは、ライスシャワーの不人気を時代の流れとして恬淡と受け入れるには、あまりにもライスシャワーの長所を知り過ぎていた。距離が伸びれば伸びるほどに勢いを増す末脚と長距離適性、自らの故障を短期間で治す並はずれた賢さ、そしてどんなに疲れていても真面目に走り抜く気性。そして、ライスシャワーは競走馬として自らの限界に挑み続け、サラブレッド多しといえど、我が国では数年に1頭くらいの割合しか出ないGl3勝という輝かしい実績を残した。そんなライスシャワーだったからこそ、彼らは後々までの幸福な馬生を約束してやるために、種牡馬として成功させてやりたかった。
 
 そうした時にライスシャワー陣営に飛び込んできたのが、宝塚記念(Gl)出走馬を決するファン投票でライスシャワーが1位を突っ走っているという知らせだった。これならば、出走の意思さえ表明すれば、夏のグランプリ・宝塚記念(Gl)に優先的に出走することができる。
 
 宝塚記念は、例年ならば阪神競馬場の芝2200mコースで開催される。しかし、この年は阪神大震災があった影響で阪神競馬場も大きな損傷を受けて改修工事が施されている最中であり、急きょ京都・芝2200mコースで開催されることになっていた。
 
 2200m。通常中距離に分類されるこの距離は、ライスシャワーにとってお世辞にも適距離とはいえない。しかし、裏を返せば、この距離で勝つことができれば、長距離でしか勝てないと思われているがゆえに低迷していた種牡馬としての評価も大きく変わってくるはずである。
 
 宝塚記念への出走が予定される顔ぶれも、多くは天皇賞・春で破った相手だった。小回りの阪神開催ならば勝ち目はないにしても、この年に限っては、得意な京都競馬場での開催である。飯塚師、的場騎手、馬主、その他ライスシャワーを取り巻く人々のすべてをして、この年の宝塚記念の条件は「これならば」と思われた。
 
 そして、ライスシャワーの宝塚記念出走が決定した。だが、次なる戦いへ赴くことを告げた的場騎手に向けられたライスシャワーの眼は、かつて的場騎手をして「猛獣のよう」と言わしめた射すくめるような厳しい視線とはうって変わった、優しく澄み切った眼差しだったという。流れゆく風はさわやかに、夏の到来が近いことを告げていた。だが、風の行方を知る者は、誰もいない。

 
 
 

『最後の戦い』

 第36回宝塚記念(Gl)が開催されたのは、天皇賞・春から1ヶ月半後のことである。ライスシャワーはファン投票では1位に支持されたものの、馬券上の人気では600円と3番人気にとどまった。出走馬17頭のうちGl馬はライスシャワー以外にはもうピークを過ぎていたナリタタイシンくらいだったが、ファンもやはり、ライスシャワーのことを生粋のステイヤーとみなしていた。
 
 この日のライスシャワーは、パドックから何となくこれからレースを走るという気迫が感じられなかった。また、的場騎手も、ライスシャワーにまたがった時から「何かがおかしい」と感じたという。だが、その感触の正体がなんなのか、その時の的場騎手には分からなかった。

 
 
 

『最期の炎』

 案の定、レースが始まってからのライスシャワーの行きっぷりは良くなかった。菊花賞の、そして2度の天皇賞・春で感じた手応えは、やはりなかった。いくらゴーサインを出しても動こうとしないライスシャワーに、的場騎手は第1コーナー時点で早くも
 
「今日は勝ち負けどころじゃない。無事に回ってこさせるだけこさせよう」
 
と諦めにも似た気持ちを感じた。

 しかし、自らがみたび栄光に輝く舞台となった淀の坂にさしかかったところで、ライスシャワーは何を感じたのだろうか。坂を上がるライスシャワーの中で、何かが燃え上がった。第3コーナー付近で、ライスシャワーはまたしても動いた。的場騎手の意思ではなく、自分自身の意思で。あるいは、戦いに生きる宿命がライスシャワーにそうさせたのかもしれない。皮肉なことに、ライスシャワーに戦いに生きる宿命を教えたのは、的場騎手だった。加速するライスシャワー。そして…。

 
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記:2001年07月27日 文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
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BGM:B.S.Bach作曲 (C)「Linten to Bach!!」
カンタータ第146番BWV146「我らあまたの苦難を経て」

※BGM不要の方はhttp://www.retsuden.com/vol32-12a.html へどうぞ。

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