「疾走の馬、青嶺の魂となり」 そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、かれは今も眠っている
疾走の馬、青嶺の魂となりライスシャワー列伝その13(最終回)
 1989年3月5日生。1995年6月4日死亡。牡。黒鹿毛。ユートピア牧場(登別)産。
 父リアルシャダイ、母ライラックポイント(母父マルゼンスキー)。飯塚好次厩舎(美浦)。
 通算成績は、25戦6勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)2回、菊花賞(Gl)、
日経賞(Gll)、芙蓉S(OP)。
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ライスシャワー列伝
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『最も輝いた地で』

 場内を包む、大レース特有の期待に満ち、張りつめた空気が、悲鳴と絶叫によって切り裂かれた。加速しかけたライスシャワーが突然前のめりになり、的場騎手が放り出されたのである。
 
 的場騎手を振り落としても、ライスシャワーはまだもがいていた。左前脚を地に着けることができないまま、崩れ落ちるように倒れるライスシャワー。何が起こったのかは、誰の目にも明らかだった。そして、これから何が起こるのかも。
 
 左前脚第1指関節開放脱臼。しかも、脱臼した箇所より下の部分の骨は、粉々に砕け散っていた。淀を愛し、淀で輝いた最後のステイヤーに待っていた結末は、故障のあまりの酷さで馬体を動かすことさえできず、その場で安楽死処分がとられるという、あまりにも悲しい最期だった。

 
 
 

『忘れ得ぬ者へ』

 突然の、しかし取り返しのつかない悲劇に襲われたライスシャワー陣営の人々のショックは大きかった。悪夢なら、覚めてくれ。そう思い、あるいは叫んだに違いない。しかし、これは夢ではなく、現実のことだった。
 
 すべてが終わって、ライスシャワー陣営の人々がとぼとぼと引き揚げようとしていると、的場騎手が突然妙なことを言い出した。
 
「ライスが死んだはずがない。もう一度見てくる」
 
そして彼は、まわりの人が必死で止めているのになおライスシャワーの方へ戻ろうとした。もう目を閉じて、冷たくなっている相棒のところへ。そんな彼を現実に引き戻したのは、飯塚師の言葉だった。
 
「均、もうやめとけ」
 
的場騎手はその言葉でようやく我に返ったのか、諦めて皆と一緒に引き揚げていった。的場騎手ほどの百戦錬磨のベテラン騎手をしても、約3年に渡ってともに戦った戦友の死を受け容れることはできなかった。そんな彼に現実を受け止めさせることができたのは、やはり三位一体でともに戦ってきた飯塚師の言葉だけだった。
 
 そんなやりとりの後、語る言葉すら失って車へと消えていった的場騎手だったが、そんな彼も、ライスシャワーから投げ出されたときに全身を強く打っていた。しかし、彼はレース後も周囲の人々に
 
「痛い」
 
とは一言も言わなかったという。
 
 的場騎手は、ライスシャワーが最初に体勢を崩した時、体勢を立て直そうと無我夢中で手綱を引いた。その後的場騎手はバランスを失って前に投げ出されたが、馬の下敷きになることはなかった。それは、ライスシャワーが的場騎手の最後の手綱に応え、懸命に体を起こしたためだった。
 
 もしライスシャワーが的場騎手の手綱に応えず、そのまま前に倒れていたら… 的場騎手はおそらく、投げ出されたときにライスシャワーの下敷きになっていただろうという。もしそうなっていれば、いくらライスシャワーが小柄だといっても、この日の馬体重で438kgである。的場騎手も無事では済まなかったに違いない。
 
 並みの馬の場合、落馬するような事故に遭った時、とっさには反応できないことがある。まして、自分自身がひどい怪我をした直後となればなおのことで、それができるのは、よほど賢く、意思が強く、そして騎手を信頼している馬だけだという。そして、ライスシャワーは反応した。それは、的場騎手にとってはライスシャワーに自分の命を救われたことにほかならなかった。
 
「俺の何倍も痛い思いをした奴がいる…」
 
そんな悲しい気持ちが、ついに的場騎手に
 
「痛い」
 
という一言を言わせなかった。少し間違えれば再起不能、あるいは自らの死という大惨事となりかねない事故の一歩手前で踏みとどまった的場騎手は、
 
「ライスに救われた」
 
という気持ちがあっただけに、戦友の「犠牲のもとに」生き残ってしまった自分自身が誰よりも辛かったのかもしれない。

 
 
 

『その視線の向こう側』

 ライスシャワーの物語は、1995年6月4日で終わりを告げた。多くのGl馬たちに付け加えられる種牡馬としての物語は、ライスシャワーには存在しない。ライスシャワーの物語は、彼一代で既に完結したのである。
 
 ライスシャワーの死後しばらくの間は、関係者の衝撃と悲嘆の深さを物語るように、彼の死についての話はマスコミに出ることが少なかったものの、近年はようやくいろいろなエピソードが語られるようになった。
 
 あれから6年の月日が流れ、競馬界はさらに大きな変化に直面している。ライスシャワーを直撃したステイヤー種牡馬不遇の兆候は、当時初年度産駒が4歳クラシック戦線で旋風を巻き起こしつつあったサンデーサイレンスの出現、そして大成功によって決定的なものとなった。ステイヤー血統の馬たちは、ただでさえスピード馬優勢の番組編成の中で、米国から来た怪物の前に次々と淘汰されつつあり、ライスシャワー以降「真のステイヤー」と称し得る馬は出現していない。
 
 かつて名種牡馬ともてはやされたライスシャワーの父・リアルシャダイも、年齢的な問題もあってついに種牡馬生活を引退してしまった。リアルシャダイの後継種牡馬としてはイブキマイカグラやガレオンの名があがっているが、見通しはいずれも明るくない。こんな時代の中では、ライスシャワーが生きて種牡馬入りしていたとしても人気になっていたとは思えず、
 
「ライスシャワーはああいう死に方をしたことで、むしろファンの間で永遠の存在になった」
 
という評もあながち気休めとはいえない状況になっている。しかし、ステイヤーの価値すら忘れ去られてしまったとしたら、ライスシャワーの価値も果たしてどれだけ後世の人々に理解してもらえるだろうか。
 
 ライスシャワーの主戦騎手として活躍した的場騎手も、2001年2月を最後にステッキを置き、騎手を引退した。いぶし銀というにはあまりに華やかであり、スターというにはあまりにも渋い玄人好みの仕事師だった彼は、ライスシャワーの死後もトップジョッキーの1人として関東に君臨し、後にはグラスワンダーというライスシャワーに勝るとも劣らない名馬と出会ってグランプリ3連覇を達成した。しかし、そんな彼もついに約25年にわたる騎手人生に幕を下ろして調教師へと転身した。ライスシャワーの時代、ステイヤーが最後の輝きを放っていた時代は、着実に遠いものとなりつつある。
 
 しかし、ライスシャワーの戦いは、過ぎ去りし時代の色あせた輝きとして忘れ去ってしまうにはあまりにも強い印象を私たちに遺した。的場騎手とのコンビで菊花賞、そして2度の天皇賞・春を制したあの記憶、そして失われゆくステイヤーの魅力と輝き。たとえ時代が彼を見放そうとも、彼は己の生き方を貫き、そして消えていった。まるで、そう生きることが己の宿命であることを知っていたかのように。
 
 的場騎手も近年多くの場所でライスシャワーについて語っているが、その中で最も印象的なのが、2度目の天皇賞が終わった後のライスシャワーについてのコメントである。
 
「そうそう、天皇賞からここと、ライスシャワーはいい顔してたよ。目が澄んでね。今でもそれははっきり覚えている。」
 
 かつて獲物を見据えるような眼で敵を睨んでいた関東の刺客が、2年という時を経てたどりついたのは、この優しい視線だった。果たしてその時の彼がその優しい視線で見ていたものは、あまりにも激しく自分を否定する方向へと流れてゆく時代だったのだろうか。それともまた別の何かだったのだろうか。そんな謎を残して、彼は京都競馬場の片隅から、今も競馬を、時代を見つめ続けている。

 
[もう一度読み返す] 
   

記:2001年07月30日 文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
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BGM:B.S.Bach作曲 (C)「Linten to Bach!!」
カンタータ第146番BWV146「我らあまたの苦難を経て」

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