日本競馬に「サンデーサイレンス時代」の到来を告げたダービー馬は、まるでダービーを勝つためだけに生まれてきたかのように、真っ白に燃え尽きた・・・
―燃え尽きたダービー馬タヤスツヨシ列伝その9
タヤスツヨシ列伝
 1992年4月26日生。牡。黒鹿毛。社台ファーム(千歳)産。
 父サンデーサイレンス、母マガロ(母父Caro)。鶴留明雄厩舎(栗東)
 通算成績は、13戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)。

[「その1」へ戻る] [「その2」へ戻る] [「その3」へ戻る] [「その4」へ戻る] [「その5」へ戻る] [「その6」へ戻る] [「その7」へ戻る] [「その8」へ戻る]

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『燃え尽きて』

 タヤスツヨシは、翌年になって放牧から帰ってきた。この放牧の目的は、走ることに前向きになれるように馬をリフレッシュさせ、古馬戦線に備えることだった。古馬になったタヤスツヨシの目標は、ひとまず天皇賞・春(Gl)に置かれていた。

 タヤスツヨシのローテーションは、天皇賞・春の前にステップレースをひとつ叩くことになっていた。タヤスツヨシも名乗りを上げた天皇賞・春では、菊花賞、有馬記念を制した前年の年度代表馬マヤノトップガン、1歳上の無冠の大器サクラローレル、そして復帰なった三冠馬ナリタブライアン・・・そんな強敵が待ち受けているはずだった。ターフを沸かせた春のクラシックから1年、タヤスツヨシはもう一度熱い春を迎えるはずだった。

 しかし、競走馬・タヤスツヨシに、春は二度と訪れなかった。産経大阪杯(Gll)での復帰を目指して調整されていたタヤスツヨシだったが、突然その脚に異変が生じたのである。診断の結果は、右前脚の屈腱炎だった。

 関係者による協議した結果、タヤスツヨシの現役引退と種牡馬入りが決まった。こうしてタヤスツヨシは、4歳春の輝きを取り戻すことなくその競走生活を終えた。通算成績は、13戦4勝。最大の勲章である日本ダービーが、彼の最後の勝利となった。




『砂の父として』

 競走馬としては評価を落としたまま終わってしまったタヤスツヨシだったが、種牡馬としての評価、つまり馬産地の反応は少し違っていた。96年春の種付けシーズンが始まってから急きょ種牡馬入りが決まったタヤスツヨシは、種牡馬としてなるべく多くの良質な繁殖牝馬を集める準備がほとんどできなかった。そうであるにもかかわらず、供用初年度となる96年のタヤスツヨシは、いきなり98頭の牝馬に種付けをし、翌春に67頭の産駒を得たのである。97年には145頭と種付けをし、104頭の産駒を得ている。

 種牡馬としてのタヤスツヨシには、「サンデーサイレンスの直系種牡馬」「日本ダービー馬」という二つの金看板のほかに、ノーザンダンサーの血を持たない血統ゆえの配合のしやすさ、そして種付け料のお手頃感という武器があった。タヤスツヨシはその後も手堅く繁殖牝馬を集め、それなり以上の人気を博しているようである。

 タヤスツヨシの初年度産駒は、99年夏にデビューしている。初年度産駒からは、今はなき上山競馬でデビューして8連勝で東北王者に輝いたサンデーツヨシ、園田菊水賞(園田重賞)を勝ち、中央の菊花賞にも挑戦したマッキーローレルといった地方競馬の強豪を輩出した。その後はユニコーンS(Glll)を勝ったナスダックパワー、マーキュリーC(統一Glll)を勝ったディーエスサンダーら、中央競馬で活躍する馬も送り出している。タヤスツヨシ自身は芝でしか走ることがなかったが、産駒はなぜかダート戦線で活躍している馬が多いという特徴がある。

 日本の馬産界を暴風のように席巻したサンデーサイレンスの直子からは、多くの種牡馬を輩出している。もはや内国馬産の15%は、父親としてサンデーサイレンスか、その直系種牡馬の血を受け継いでいるという。母の父も含めれば、その比率はより高いものとなるに違いない。「サンデーサイレンス系」の種牡馬の生存競争も、熾烈を極めている。もはや「サンデーサイレンスの子」というだけで種牡馬として成功する時代ではなく、現に「タヤスツヨシの全弟」として話題になったジンガロは、日本で種牡馬になることができずにフィリピンへと渡っている。そんな中で、サンデーサイレンス産駒であるとともに、日本ダービー馬でもあるタヤスツヨシは、「砂の父」として独自の地位を築いていくのだろうか。

 「ダービー馬」というのは、古今東西を通じて特別な存在である。ダービー馬の系譜すら残らない日本競馬に何の夢があるだろうか。日本競馬の黄金期を支えたのは、やはり日本で走ってファンに親しまれた祖父、父からその血を受け継いで輝いたスターホースたちだったことを思えば、内国産種牡馬、特にダービー馬の復権こそが競馬人気復活の鍵を握っていると言わなければならない。その意味でも、タヤスツヨシには「ダービーを勝つためだけに生まれてきた」などという評価に安住してもらっては困るのである。第62代ダービー馬タヤスツヨシの今後の健闘を祈りたい。




『そして、新たな時代の中へ』

 競走馬としてのタヤスツヨシは、「燃え尽きたダービー馬」の典型例として引かれる例が多い。鶴留師も、タヤスツヨシについて

「タヤスツヨシは、ダービーで全ての力を出し切って、あのレースがピークだったのかもしれません」

と振り返っている。タヤスツヨシの戦績は、確かにダービーを境として、別の馬のように落ちてしまっている。この事実は、競走馬として未完成な時期に2400mという過酷な距離で頂点を競うダービーを勝つために要する犠牲の大きさ、そしてダービーというレースが持つ魔力を物語っているようである。

 「燃え尽きた」という場合、「燃え尽きた後」の不振ばかりがクローズアップされることが多いが、これは公正とはいえないだろう。「燃え尽きた」といわれる馬には、必ず燃え尽きる前の時代がある。ダービーまでのタヤスツヨシは、「名馬」と呼ばれるだけの強さと安定性を備えていた。これらをあわせて評価してこそ、「タヤスツヨシ」というサラブレッドを正しく評価することができる。

 2002年8月19日、日本の馬産界に革命をもたらした大種牡馬サンデーサイレンスが、逝った。「サンデーサイレンス時代」の次に来るものは何なのか、それはまだ分からない。しかし、種牡馬の血がひとつの時代を築くにとどまらず、系統の祖として後世までその名を残すためには、種牡馬自身が素晴らしい種牡馬成績を残すだけではなく、その種牡馬の血を継いだ後継種牡馬もまた素晴らしい成績を残さなければならない。

 サンデーサイレンスを日本へと導入した吉田善哉氏は、生前

「サンデーサイレンスを世界一の種牡馬にしたい」

と言っていたという。誰よりもダービーを愛し、ダービーにあこがれながら、生きている間には1度しか勝てなかった善哉氏だが、彼が遺したサンデーサイレンスは、彼の死後になって多くのダービー馬を次々と輩出した。だが、サンデーサイレンス自身の産駒が増えることはなくなった今、サンデーサイレンスの血の行方は、その後継種牡馬たちに託されつつある。

 サンデーサイレンスが遺した「最初のダービー馬」タヤスツヨシは、種牡馬としても、内国産ダービー馬として恥じることのない成績を残している。競走馬としては燃え尽きたとしても、種牡馬としても燃え尽きたとは限らないのが競馬である。タヤスツヨシは、新たな時代の中で何らかの役割を果たす資格をいまだ持ち続けている。


[]

記:2004年05月03日 文:ぺ天使@MilkyHorse.com
御意見・御感想は、著者(ぺ天使)宛にどうぞ!

「Retsuden.com」INDEX
「MilkyHorse.com」INDEX
このページのMIDI音源は(株)YAMAHAの提供によるフリー素材です。
※BGM不要の方はこちら へ。
写真:タヤスツヨシ近影 (C)「Umamado Stud」
※列伝各話はIE環境下でMIDI自動演奏を設定しております※

このページはInternet Explorer 4.0以上で御覧になることをお勧めします。